2018年03月30日
ダレヤメ
「鹿児島よさこい節」。スッタイダレモシタの「疲れる」意の動詞ダルルの名詞形がダレで「ダレを止めさせる」まさに「百薬の長」との心。
日本語の「晩酌」とは「晩に酌む」酒だから、そのように名づけられたのだろう。味気ない命名であるが、ダイヤメは一日の疲れを止め、明日への活力を養う、精神的な命名法と考えるのは少しえこひいきであろうか。
薩摩狂句作品集から「ダイヤメ」の句を紹介。
晩酌(ダイヤメ)を せんにゃ妻(カカ)どが 心配(せわ)をえっ
「心配をえっ」は「世話を焼く」。これは共通語と同じく「面倒を見てやる」意でも使われているが、この区のように「心配する」意にも使う。そんなに心配してくれる女房を、ほんとの「世話女房」というのだろう。
晩酌(ダイヤメ)も 水臭(ミック)そなった 月給前
晩酌(ダイヤメ)を しかて気を使(ツ)こ 入試前
我が子への心くばり、共感を誘う。
他にも オカベ、ムゾカ、タモル、スンノクジラなどなど。
<ひとり言>
んにゃこら、サダッが来たど。
「夕立」、「にわか雨」?
こんごろは 我がえたいも アマッ子おらんどなぁー
アマイバッチョじゃっどが〜。
さき、アレアッメをせんかー ちがらえて,,,
こん前 タネをめたエンド豆が芽をでたで、イラサといけ いかんなら
イシッタ! 水 イッカクンナちょ〜。
しっちょったけー? いっすっぺ使わんな なかごっなっどぉ。
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14:25
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2018年03月28日
かごいまん「外来語」

「ギッタ跳びをするがー」
ギッタはゴムのことです。ゴム毬のことはギッタマイといいます。ところが「消しゴム」のことは「消しギッタ」とはいわないし、「ゴム風船」のことも「ギッタ風船」とはいわない。ということは「消しゴム」や「ゴム風船」などがはやりだした時には、もはや、ギッタということばは亡んでいたということだろうか?
ところが、意外なことにギッタは現在でも使われていた。その例証に南日本新聞「黒ヂョカ」欄に、次の二つの小噺がある。
一つの題は「いっぽギッタ」。ゴルフ仲間の打ち上げ焼肉パーティーでの話。さる人が「こんギッタ(ホルモン焼)はうんまか」といって、食欲旺盛。ところが、そのうち、うまく肉をかみきれないで、口をモグモグ。まさか吐き出すわけにもいかず、ようやく引き上げる段になって、外でペッ。よく見ると、それは肉ではなく、輪ゴム。外の連中いわく「これが本当のいっぽギッタじゃ」。
いっぽギッタとは頑固な偏屈者のことだそうです。
次は「徳之島の『新米』騒動」。警察署員の婦人連、集まっておにぎりづくり。正月の子どもの遊びが話題となるや、美人ぞろいの奥さんの一人、「よくギッタマイ(ごむまり)で遊びよったねぇ」と懐かしそう。「そうそう、ギッタマイがあった」と、一座にぎやか。そのグループの一人、埼玉県出身で標準語しか使えない、新米婦人、おにぎりの形を整えながら、伊佐米は聞いたことがあるけど、新米なんだろうかと思案。真顔で「そのギッタマイという新米は、徳之島ではどこで売ってるんですか」。はじめはポカンとしていた先輩たち。間もなく、その新米夫人の新米違いとわかり爆笑ひとしきり。
薩摩狂句から一句
緩(ゆ)りギッタ パンツを握っ 尻(げ)走っ
おそらく、小学校の運動会でもあろうか。微笑ましい光景である。
このギッタの由来は、英語でマレー群島に産するゴムをグッタペルチャといい、本来はマレー語。それを略してグッタと言い、さらになまってギッタと伝わったらしい。
そのほか、かごしまの『外来語』として
「ヂャン」、「ジャンボ」、「バンコ」など。
「かごしま語の世界」 牛留致義 著 より
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10:07
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2018年03月25日
眺めがよすごわんど!
大河「せごどん」に出てきたツリーハウスみたいな場所にあこがれて作ってみました。



たそがれどきに一杯やるのが楽しみだ!



サンキャッチャーが織りなす光の芸術です。



たそがれどきに一杯やるのが楽しみだ!



サンキャッチャーが織りなす光の芸術です。
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09:06
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2018年03月22日
日新公「いろは歌」より
聞くこともまた見ることも心がら
皆まよひなり みなさとりなり
(大意)我々がかねて聞いたり、見たりすることも、自分の心のもちようで、皆、迷いともなり、悟りともなる
(心に曇りがあると真相をみることはむつかしい)


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09:51
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2018年03月21日
西郷、京都へ

西郷は五日後にはもう鹿児島を出発して京都にいた。
久光はあとを小松帯刀や西郷に任せ、大久保を従えて帰国した。
西郷は薩摩藩に対する世間の不評を払いのけることに力を注いだ。薩摩と対立する長州藩は京都における権力奪取にむけ、幕府新撰組による池田屋事件の報復をおこなう必要もあって、武力上洛を決行した。 約二千人の長州兵が、伏見、山崎、嵯峨の三要地に陣を構えて京都を包囲していた。
幕府は薩摩藩に淀付近への出兵を命じたが、薩摩藩はすぐ書面でこれを断った。書状によると、この戦争は長州と会津の私闘であり、薩摩は理由のない兵を動かす場合でないので、久光の命令通り御所(皇居)の警備に専念するとある。
勅命以外では動かないという姿勢を示したもので、あきらかに薩摩の幕府離れが始まっている。
慶喜は長州藩に対し、撤兵を命じたがききいれず、三方面から京都への侵入をはじめた。薩摩藩は御所の禁門、蛤門などの警備にあたり、長州藩と衝突して戦闘となり、このとき京都に起こった火災は三日間燃えつづき、公家の邸宅数十家や市民の家屋二万八千余戸が焼け失せた。


サクラ キレイ! 撮影 垂井俊憲氏
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12:08
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2018年03月15日
西郷、沖永良部から帰る。

文久三年、八月十八日の変政後、公武合体の勢力が盛り返したのに乗じ、京都は幕府と会津の天下となり、朝廷の力を強めようとした島津久光としても心外であったろうが、前年寺田屋に結集した薩摩藩士にとってこのような腹立たしいことはなかった。何としてもこの京都の情勢挽回を図らなければならない。それには西郷呼びもどしが必要だと痛感された。
薩英戦争後、これまで藩政を牛耳っていた中山中左衛門の力が急速に弱まり、中山は桜島地頭に左遷され、西郷呼びもどしにも消極的であった。こうして伊地知正治.黒田清綱(洋画家黒田清輝の養父)らは、久光側近の高崎正風(京都藩邸留守居)らにせまり、久光に西郷呼びもどしを願い出させた。しかし西郷を一生遠島にしてやると決意していた久光は、なかなか「うん」と言わない。それに対して高崎は「西郷がもし悪人ならば、先君斉彬公はどうしてあのように西郷を信頼されたのでしょうか」と、「先君の御寵臣」の一点ばりで、久光の説得をつづけた。とうとう久光はこう言った。
左右みな賢なりというか、しからばすなわち愚妹の久光独りこれをさえぎるは口論にあらず、よろしく太守公の裁決を請うべし
と、そんなに西郷は賢いのか、そうであれば愚かな久光一人が反対するのは口論(国家的意見)でない、藩主の許可をうけよ、と。皮肉をきかせながらも、藩主忠義の判断にまかせると言った。久光は口論を重んじたのである。その時久光愛用の銀キセルの吸い口には、歯型がついていたという。
西郷は奄美大島龍郷から帰って、藩の使者吉井友実と弟の従道に迎えられて、元治元年(1864)二月二十二日、沖永良部島を出発、途中喜界島の村田新八をつれて二十八日鹿児島に着いた。
次回、「西郷、京都へ」

撮影 垂井俊憲氏
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11:41
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2018年03月12日
前と後

明治維新の前と後とで世の中はどんなにかわったのか。
江戸時代は士農工商、すなわち武士.農民.職人.商人の身分がきびしく定められていた。そして武士の家に生まれたら武士、商人の家に生まれたら商人と、生まれたとたんにその人の一生の方向がきめられ、特別な場合以外それを変えることはできなかった。
全国民の5,6パーセントぐらいの武士階級が支配者で、かれらは名字帯刀の特権をもっていて、農工商はただこれに従うだけであった。
明治維新以後になると士農工商の身分は廃止され、苗字使用の自由や職業選択の自由があたえられ、また軍隊ができて軍事.国防を代々世襲した武士はいなくなり、国民すべてが兵役に服するようになった。さらに明治二十二,三年になると憲法と議会ができて、だんだん旧武士階級以外の者にも国の政治に参加する道がひらかれてくる。また裁判には弁護人(はじめ代言人といった)をつけることもできるようになった。さらに人民は国内旅行も自由にできるようになった。これまで人民は日本国内でも藩外への旅行には旅券の相当する手形が必要で、今日の外国旅行なみだったのである。今日の我々から見ると、な〜んだと思われるようなことが、明治維新以前の社会ではほとんど自由にできなかったのである。それを今日の状態に切りひらく糸口が明治維新であった。
これから考えて明治維新は我々の生活に大変大きな関係のあることであり、そのような歴史的大変革にリーダーの役割を果たすということが、どんなに大切なことであるかということがわかると思います。
明治維新のような、二百六十年以上も続いた徳川体制をひっくり返すような政治社会の大きな変革、それはフランス革命にまさるともおとらない大事業であるが、その実現はけっして平坦なものではなかった。ジグザグのコースをたどりながらようやく実現したのである。でもそれはその後の変革の出発点としてなくてはならないものであり、この関門をくぐらなかったら近代的な日本への転換はなかった、と言わなければならないものである。

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11:13
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2018年03月10日
火山活動

九州にある五つのカルデラのうち、四つがあり(加久藤カルデラは宮崎県境)、多くの火山活動が点在する鹿児島は、世界的に見ても貴重な場所の一つである。
カルデラが一つ存在する熊本県は「火の国」と呼ばれている。そうであれば、四つのカルデラが存在する鹿児島県は「炎の国」と呼ばれても不思議ではない。
マグマは地下水との共同作業で温泉をもたらす。 鹿児島の泉源数は日本第二位である。 また鹿児島市は、県都としては日本一の泉源を持つ。 市内にある70近くの銭湯はすべて温泉で、一日一つ入ったとして、すべての銭湯に入るには二ヶ月以上もかかる計算です。


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13:41
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2018年03月08日
ここらでチョット「かごしま検定」! (練習問題)
1、縄文式土器が弥生式土器よりも古い時代であることを初めて証明した遺跡はどこか?
①上野原遺跡(国分)
②橋牟禮川遺跡(指宿)
③栫ノ原遺跡(鹿児島)
2、島津元久の建立で、島津氏の菩提寺であり南九州最大の規模を有した寺院はどこか?
①一乗院(坊津)
②宝満寺(志布志)
③福昌寺(鹿児島)
3、1549年、稲荷川河口に上陸し、日本に初めてキリスト教を伝えた宣教師は誰か?
①ザビエル
②鑑真
③シーボルト
4、藩政時代に、領内を約110に区分してそれぞれの麓集落に半農半士の武士を住まわせた独特の制度はどれか?
①郷中教育
②一向宗禁教令
③外城制度
5、島津氏28代藩主の斉彬が集成館事業の柱として力を入れ、国産初の本格的な洋式軍艦として完成させた船名は何か?
①昇平丸
②咸臨丸
③桜島丸
「かごしま検定」より
こたえ (2、3、1、3、1)
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08:59
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2018年03月02日
薩摩藩英国留学生

西洋の技術におよばないことを痛感した薩摩藩は、賠償金の二万五千ポンド(十万ドル)を幕府から借りて支払い、急ぎ、和平交渉に入り技術導入を図った。
幕府はフランスに協力を求める一方、薩摩はイギリスとの独自の外交を展開したのである。
藩内は、積極的に西洋に学び、国力の増強を進めるべきとの意見が大勢を占めるようになった。
1865年、寺島宗則や五代友厚らの使節と留学生を藩費で密かに英国に派遣した。(薩摩藩英国留学生)
留学生たちは串木野の羽島海岸を発ち、海外渡航の禁制を破っての派遣のため変名を用いた。翌年には、第二次留学生を米国に送った。
一行の中には、わが国最初の文部大臣になった森有礼も入っており、また長沢鼎のようにアメリカに永住して農場経営にあたり、ぶどう王と呼ばれるまでに成功した人もいた。

1867年に開催されたパリ万博には、日本薩摩太守政府の名で参加した。薩摩焼をはじめ、琉球の泡盛や黒糖など、幕府とは一線を画し、まるで独立国のように出展した。また外国汽船を買い増す機会を得て、軍事力の近代化を進めた。
英国戦争で大きな痛手を受けた集成館の近代工場群の復興にはいち早く着手した。造船所をはじめ、1864年に機械工場の建設、1867年には日本初の洋式紡績工場である鹿児島紡績所が操業を開始した。

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15:21
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