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Posted by チェスト at

2018年04月25日

西郷隆盛の言葉

  過去の功績にこだわってはいけない。
        地位にしがみついてはいけない。

「廟堂に立ちて大政を為すは天道を行うものなれば、些かとも私を挟みては済まぬものなり。いかにも心を公平に操り、正道を踏み、広く賢人を選挙し、能く其の職に任ふる人を挙げて、政柄を執らしむるは、即ち天意なり。それゆえ真に賢人と認むる以上は、直ちに我が職を譲る程ならでは叶わぬものぞ。故に何程国家に勤労あるとも、その職に仕えぬ人を官職を以って賞するは善からぬことの第一なり。官はその人を選びてこれを授け、功ある者には俸禄を以ってこれを賞し、これを愛しく置くものぞ」

 政府の中心となって国政を行うことは、天の道を行うことだから、少しも私心をはさんではならない。よく心を公平にして、正しい道を踏み、広く賢人を選び、よくその職を遂行させるのが天意に沿うことである。それゆえ、真に賢人と認められる人がいたならば、すぐに自分の職を譲るほどでなければならないのだ。したがって、いかに国家に功績があったとしても、その職にふさわしくない者に職を与えて賞することはよくないことの第一である。感触はそのふさわしい人物を選んで与え、功績ある者には賞金を与えて、その功をほめるべきである。

(解説)
 これは古くは中国の書経にもある教えではあるが、言うにはたやすいことだが、自らの人生で貫ける人はほとんど稀である。よほどの修養がいる。西郷隆盛はその稀なる実践者として、歴史に偉大な名を残した。
 明治維新の最大の功労者である西郷だが、自分の役割を果たすと、自らは国政を行う人ではないと、大久保らに道を譲り、鹿児島に帰った。しかし、廃藩置県という難題を控え、大久保、木戸たちの強い要請を持って再び国政の中心となり、さらに岩倉、大久保、木戸たちの外遊の間はしっかりと日本を守った。海外視察組が戻ると、いわゆる征韓論に敗れたという形をとっているが、やはり大久保に「後はまかせた」と地位を自ら退いたのである。
 西郷は自らの行き方でもって、日本の後進の政治家たちに範を示した。功績と責任ある地位は分けて考えよという教えは、全ての組織のあり方にも通じる教えである。
   総合法令出版株式会社 「薩摩のキセキ」より抜粋

※ どこかの大臣さぁに差し上げたい せごどんのお言葉 でございもす!






  

Posted by のりP(顔は本人ではありません) at 10:18Comments(0)

2018年04月12日

かごしまの ことわざ

チェスト関ケ原
 鹿児島独特の気合の入れ方である。関ケ原の合戦で豊臣方について敗軍となった島津義弘公は勇猛果敢に敵中突破し、薩摩に戻りついた。そのことに由来してさつま隼人を奮い立たせる気合い入れの言葉となった。
 大河ドラマ「せごどん」のナレーションでも出てくる。


屁ひっかぶい
  屁をいつもだしてる人のこと。臆病者にも使う。

夫婦(ミト)喧嘩は一日(ヒシテ) 三度続けば祝(ユエ)じゃ
  夫婦喧嘩をするほど仲が良いといわれる。仲裁などに入る必要はない。どうせ続かないし、三度続けばそれほど仲が良いことになるので、お祝いである。

八日よかろう 九日こけ居れ 十日泊まれ
 魚釣りの良い日を言ったもの。旧暦の八日は潮の流れも普通である。九日はなおさら良い。十日は最高の潮であるから泊まってでも釣りをしなさい。

   かごしまことわざ辞典 より  

Posted by のりP(顔は本人ではありません) at 10:30Comments(0)

2018年03月30日

ダレヤメ


「鹿児島よさこい節」。スッタイダレモシタの「疲れる」意の動詞ダルルの名詞形がダレで「ダレを止めさせる」まさに「百薬の長」との心。
 日本語の「晩酌」とは「晩に酌む」酒だから、そのように名づけられたのだろう。味気ない命名であるが、ダイヤメは一日の疲れを止め、明日への活力を養う、精神的な命名法と考えるのは少しえこひいきであろうか。
 薩摩狂句作品集から「ダイヤメ」の句を紹介。

 晩酌(ダイヤメ)を せんにゃ妻(カカ)どが 心配(せわ)をえっ

「心配をえっ」は「世話を焼く」。これは共通語と同じく「面倒を見てやる」意でも使われているが、この区のように「心配する」意にも使う。そんなに心配してくれる女房を、ほんとの「世話女房」というのだろう。

 晩酌(ダイヤメ)も 水臭(ミック)そなった 月給前

 晩酌(ダイヤメ)を しかて気を使(ツ)こ 入試前
  我が子への心くばり、共感を誘う。

 他にも オカベ、ムゾカ、タモル、スンノクジラなどなど。

<ひとり言>
んにゃこら、サダッが来たど。
  「夕立」、「にわか雨」?

こんごろは 我がえたいも アマッ子おらんどなぁー
 アマイバッチョじゃっどが〜。

さき、アレアッメをせんかー ちがらえて,,,

こん前 タネをめたエンド豆が芽をでたで、イラサといけ いかんなら

イシッタ! 水 イッカクンナちょ〜。

しっちょったけー? いっすっぺ使わんな なかごっなっどぉ。
  

Posted by のりP(顔は本人ではありません) at 14:25Comments(0)

2018年03月28日

かごいまん「外来語」


「ギッタ跳びをするがー」
ギッタはゴムのことです。ゴム毬のことはギッタマイといいます。ところが「消しゴム」のことは「消しギッタ」とはいわないし、「ゴム風船」のことも「ギッタ風船」とはいわない。ということは「消しゴム」や「ゴム風船」などがはやりだした時には、もはや、ギッタということばは亡んでいたということだろうか?
 ところが、意外なことにギッタは現在でも使われていた。その例証に南日本新聞「黒ヂョカ」欄に、次の二つの小噺がある。
 一つの題は「いっぽギッタ」。ゴルフ仲間の打ち上げ焼肉パーティーでの話。さる人が「こんギッタ(ホルモン焼)はうんまか」といって、食欲旺盛。ところが、そのうち、うまく肉をかみきれないで、口をモグモグ。まさか吐き出すわけにもいかず、ようやく引き上げる段になって、外でペッ。よく見ると、それは肉ではなく、輪ゴム。外の連中いわく「これが本当のいっぽギッタじゃ」。
いっぽギッタとは頑固な偏屈者のことだそうです。
 次は「徳之島の『新米』騒動」。警察署員の婦人連、集まっておにぎりづくり。正月の子どもの遊びが話題となるや、美人ぞろいの奥さんの一人、「よくギッタマイ(ごむまり)で遊びよったねぇ」と懐かしそう。「そうそう、ギッタマイがあった」と、一座にぎやか。そのグループの一人、埼玉県出身で標準語しか使えない、新米婦人、おにぎりの形を整えながら、伊佐米は聞いたことがあるけど、新米なんだろうかと思案。真顔で「そのギッタマイという新米は、徳之島ではどこで売ってるんですか」。はじめはポカンとしていた先輩たち。間もなく、その新米夫人の新米違いとわかり爆笑ひとしきり。

 薩摩狂句から一句

   緩(ゆ)りギッタ パンツを握っ 尻(げ)走っ

おそらく、小学校の運動会でもあろうか。微笑ましい光景である。

このギッタの由来は、英語でマレー群島に産するゴムをグッタペルチャといい、本来はマレー語。それを略してグッタと言い、さらになまってギッタと伝わったらしい。

そのほか、かごしまの『外来語』として
「ヂャン」、「ジャンボ」、「バンコ」など。

   「かごしま語の世界」  牛留致義 著 より  

Posted by のりP(顔は本人ではありません) at 10:07Comments(0)

2018年03月25日

眺めがよすごわんど!

大河「せごどん」に出てきたツリーハウスみたいな場所にあこがれて作ってみました。




たそがれどきに一杯やるのが楽しみだ!




サンキャッチャーが織りなす光の芸術です。


  

Posted by のりP(顔は本人ではありません) at 09:06Comments(0)

2018年03月22日

日新公「いろは歌」より

 
 聞くこともまた見ることも心がら
        皆まよひなり みなさとりなり

(大意)我々がかねて聞いたり、見たりすることも、自分の心のもちようで、皆、迷いともなり、悟りともなる
(心に曇りがあると真相をみることはむつかしい)




  

Posted by のりP(顔は本人ではありません) at 09:51Comments(0)

2018年03月21日

西郷、京都へ



 西郷は五日後にはもう鹿児島を出発して京都にいた。
久光はあとを小松帯刀や西郷に任せ、大久保を従えて帰国した。
西郷は薩摩藩に対する世間の不評を払いのけることに力を注いだ。薩摩と対立する長州藩は京都における権力奪取にむけ、幕府新撰組による池田屋事件の報復をおこなう必要もあって、武力上洛を決行した。 約二千人の長州兵が、伏見、山崎、嵯峨の三要地に陣を構えて京都を包囲していた。
 幕府は薩摩藩に淀付近への出兵を命じたが、薩摩藩はすぐ書面でこれを断った。書状によると、この戦争は長州と会津の私闘であり、薩摩は理由のない兵を動かす場合でないので、久光の命令通り御所(皇居)の警備に専念するとある。
勅命以外では動かないという姿勢を示したもので、あきらかに薩摩の幕府離れが始まっている。
 慶喜は長州藩に対し、撤兵を命じたがききいれず、三方面から京都への侵入をはじめた。薩摩藩は御所の禁門、蛤門などの警備にあたり、長州藩と衝突して戦闘となり、このとき京都に起こった火災は三日間燃えつづき、公家の邸宅数十家や市民の家屋二万八千余戸が焼け失せた。




        サクラ キレイ!  撮影 垂井俊憲氏


  

Posted by のりP(顔は本人ではありません) at 12:08Comments(0)

2018年03月15日

西郷、沖永良部から帰る。



 文久三年、八月十八日の変政後、公武合体の勢力が盛り返したのに乗じ、京都は幕府と会津の天下となり、朝廷の力を強めようとした島津久光としても心外であったろうが、前年寺田屋に結集した薩摩藩士にとってこのような腹立たしいことはなかった。何としてもこの京都の情勢挽回を図らなければならない。それには西郷呼びもどしが必要だと痛感された。
 薩英戦争後、これまで藩政を牛耳っていた中山中左衛門の力が急速に弱まり、中山は桜島地頭に左遷され、西郷呼びもどしにも消極的であった。こうして伊地知正治.黒田清綱(洋画家黒田清輝の養父)らは、久光側近の高崎正風(京都藩邸留守居)らにせまり、久光に西郷呼びもどしを願い出させた。しかし西郷を一生遠島にしてやると決意していた久光は、なかなか「うん」と言わない。それに対して高崎は「西郷がもし悪人ならば、先君斉彬公はどうしてあのように西郷を信頼されたのでしょうか」と、「先君の御寵臣」の一点ばりで、久光の説得をつづけた。とうとう久光はこう言った。

左右みな賢なりというか、しからばすなわち愚妹の久光独りこれをさえぎるは口論にあらず、よろしく太守公の裁決を請うべし

と、そんなに西郷は賢いのか、そうであれば愚かな久光一人が反対するのは口論(国家的意見)でない、藩主の許可をうけよ、と。皮肉をきかせながらも、藩主忠義の判断にまかせると言った。久光は口論を重んじたのである。その時久光愛用の銀キセルの吸い口には、歯型がついていたという。
 西郷は奄美大島龍郷から帰って、藩の使者吉井友実と弟の従道に迎えられて、元治元年(1864)二月二十二日、沖永良部島を出発、途中喜界島の村田新八をつれて二十八日鹿児島に着いた。

次回、「西郷、京都へ」


撮影 垂井俊憲氏


  

Posted by のりP(顔は本人ではありません) at 11:41Comments(0)

2018年03月12日

前と後



 明治維新の前と後とで世の中はどんなにかわったのか。
江戸時代は士農工商、すなわち武士.農民.職人.商人の身分がきびしく定められていた。そして武士の家に生まれたら武士、商人の家に生まれたら商人と、生まれたとたんにその人の一生の方向がきめられ、特別な場合以外それを変えることはできなかった。
全国民の5,6パーセントぐらいの武士階級が支配者で、かれらは名字帯刀の特権をもっていて、農工商はただこれに従うだけであった。
 明治維新以後になると士農工商の身分は廃止され、苗字使用の自由や職業選択の自由があたえられ、また軍隊ができて軍事.国防を代々世襲した武士はいなくなり、国民すべてが兵役に服するようになった。さらに明治二十二,三年になると憲法と議会ができて、だんだん旧武士階級以外の者にも国の政治に参加する道がひらかれてくる。また裁判には弁護人(はじめ代言人といった)をつけることもできるようになった。さらに人民は国内旅行も自由にできるようになった。これまで人民は日本国内でも藩外への旅行には旅券の相当する手形が必要で、今日の外国旅行なみだったのである。今日の我々から見ると、な〜んだと思われるようなことが、明治維新以前の社会ではほとんど自由にできなかったのである。それを今日の状態に切りひらく糸口が明治維新であった。
これから考えて明治維新は我々の生活に大変大きな関係のあることであり、そのような歴史的大変革にリーダーの役割を果たすということが、どんなに大切なことであるかということがわかると思います。
 明治維新のような、二百六十年以上も続いた徳川体制をひっくり返すような政治社会の大きな変革、それはフランス革命にまさるともおとらない大事業であるが、その実現はけっして平坦なものではなかった。ジグザグのコースをたどりながらようやく実現したのである。でもそれはその後の変革の出発点としてなくてはならないものであり、この関門をくぐらなかったら近代的な日本への転換はなかった、と言わなければならないものである。

  

Posted by のりP(顔は本人ではありません) at 11:13Comments(0)

2018年03月10日

火山活動





 九州にある五つのカルデラのうち、四つがあり(加久藤カルデラは宮崎県境)、多くの火山活動が点在する鹿児島は、世界的に見ても貴重な場所の一つである。
カルデラが一つ存在する熊本県は「火の国」と呼ばれている。そうであれば、四つのカルデラが存在する鹿児島県は「炎の国」と呼ばれても不思議ではない。
 マグマは地下水との共同作業で温泉をもたらす。 鹿児島の泉源数は日本第二位である。 また鹿児島市は、県都としては日本一の泉源を持つ。 市内にある70近くの銭湯はすべて温泉で、一日一つ入ったとして、すべての銭湯に入るには二ヶ月以上もかかる計算です。





最近活発に噴火を続ける新燃岳のある霧島は、宮崎県と鹿児島県にまたがる火山の複合体で、色の異なる美しい火口湖が多く存在することで、日本でも得意な火山体である。 新燃岳の火口湖は美しいエメラルドグリーンの湖水をたたえている。宮崎県側にも不動池、六観音池、白紫池、御池などの火口湖が点在している。 また霧島一帯には、水蒸気や火山ガスを噴出する噴気口が多くみられ、活動を停止したようにみえる火口湖も、地下では火山活動が続いている。







  

Posted by のりP(顔は本人ではありません) at 13:41Comments(0)