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Posted by チェスト at

2018年03月21日

西郷、京都へ



 西郷は五日後にはもう鹿児島を出発して京都にいた。
久光はあとを小松帯刀や西郷に任せ、大久保を従えて帰国した。
西郷は薩摩藩に対する世間の不評を払いのけることに力を注いだ。薩摩と対立する長州藩は京都における権力奪取にむけ、幕府新撰組による池田屋事件の報復をおこなう必要もあって、武力上洛を決行した。 約二千人の長州兵が、伏見、山崎、嵯峨の三要地に陣を構えて京都を包囲していた。
 幕府は薩摩藩に淀付近への出兵を命じたが、薩摩藩はすぐ書面でこれを断った。書状によると、この戦争は長州と会津の私闘であり、薩摩は理由のない兵を動かす場合でないので、久光の命令通り御所(皇居)の警備に専念するとある。
勅命以外では動かないという姿勢を示したもので、あきらかに薩摩の幕府離れが始まっている。
 慶喜は長州藩に対し、撤兵を命じたがききいれず、三方面から京都への侵入をはじめた。薩摩藩は御所の禁門、蛤門などの警備にあたり、長州藩と衝突して戦闘となり、このとき京都に起こった火災は三日間燃えつづき、公家の邸宅数十家や市民の家屋二万八千余戸が焼け失せた。




        サクラ キレイ!  撮影 垂井俊憲氏


  

Posted by のりP(顔は本人ではありません) at 12:08Comments(0)