2018年02月04日
島暮らし時代(沖永良部島編)

島津久光の逆麟に触れた西郷は最初、徳之島に流された。そのことを知った奄美大島の島妻の愛加那が子供を連れて徳之島を訪れ、束の間の再会を楽しんだという。
しかし、島妻が簡単に会いに来れるような島では流刑の意味がない、と激怒した久光は、さらに遠く離れた沖永良部島へ送ることを命じた。さすがの西郷も、この久光の常軌を逸した怒りに驚き、船中で殺されるのではとおびえていたらしい。
島に到達すると、西郷は島の東側にある和泊村の牢に入れられた。牢は吹きさらしで劣悪な環境だったため、西郷はみるみるやせ細っていった。そのやつれた姿を見かねた島の役人が上に進言し、新しい牢舎を立てた。その牢中で、西郷は、陽明学者であり書家でもある川口雪蓬と知り合い、書や漢詩の指導を受ける。これをきっかけに西郷は獄中で学問にのめりこんでいった。
島での日々の暮らしは、特に監視されることもなく、かなり自由に生活することができたようで、奄美大島のときと同じように、島の子供達を相手に寺子屋を開いた。もちろんお金はとれなかったが、子どもたちが家から持ってくる芋や野菜が西郷の暮らしを助けた。
夜になるとほとんど毎日牢屋の番人と酒を酌み交わした。酔いが回ってくると西郷はよく講談をうなっていたようで、十八番は「川中島合戦」と「宮本武蔵」だったという。
薩摩から遠く離れた島で罪人として過ごした二年間だったが、次の飛躍への充電期間として、少なくとも精神的には価値ある時間だったといえよう。
西郷が暮らした奄美大島と沖永良部島には、住居や牢屋跡などが今も残っています。
Posted by のりP(顔は本人ではありません) at 12:13│Comments(0)