2017年11月17日
長井正維氏
昭和22年、西南方村村長に初当選してから長期にわたり、町長としても昭和54年に逝去されるまで坊津のために一生を捧げた方であります。
新屋敷幸男著「南海の舟人たち」の中で長井正維町長が筆者と坊津のことをわかりやすく端的に語っておられたので抜粋しておおくりします。
坊港
「坊は日本の二千年の歴史を通して海とともに栄えた港です。」
薩摩半島の西南端、地の果てに三,四百メートルの山々が海中に断崖となって落ちるリアス式海岸で、耕すほどの平地は少なくおよそ人間の暮らしにくい土地柄でしたが、浦々は天然自然の良港となっていました。
泊港
坊津,泊津、久志浦、秋目浦の大きな四つの入り江が南へ西へとそれぞれの方向に開き、それらの入り江を山や岬が大きな腕で抱き込むように大波を防ぎ、強風を止めるという、まさに天然の要塞なのです。
浦は広くて深くて、遠方よりのいかなる大船もエメラルドの暖流に乗って入港し、安心安全に航海の疲れを癒せるのです。
久志港
伊勢の安濃津、筑前の博多津、薩摩の坊津を日本の三津と言いますが、中でも坊津は「大唐の総路の津」と言われたものです。
それでは次に遣唐使と遣唐船の話をいたしましょう!!
次回へ つづく...
新屋敷幸男著「南海の舟人たち」の中で長井正維町長が筆者と坊津のことをわかりやすく端的に語っておられたので抜粋しておおくりします。

「坊は日本の二千年の歴史を通して海とともに栄えた港です。」
薩摩半島の西南端、地の果てに三,四百メートルの山々が海中に断崖となって落ちるリアス式海岸で、耕すほどの平地は少なくおよそ人間の暮らしにくい土地柄でしたが、浦々は天然自然の良港となっていました。

坊津,泊津、久志浦、秋目浦の大きな四つの入り江が南へ西へとそれぞれの方向に開き、それらの入り江を山や岬が大きな腕で抱き込むように大波を防ぎ、強風を止めるという、まさに天然の要塞なのです。
浦は広くて深くて、遠方よりのいかなる大船もエメラルドの暖流に乗って入港し、安心安全に航海の疲れを癒せるのです。

伊勢の安濃津、筑前の博多津、薩摩の坊津を日本の三津と言いますが、中でも坊津は「大唐の総路の津」と言われたものです。
それでは次に遣唐使と遣唐船の話をいたしましょう!!
次回へ つづく...
Posted by のりP(顔は本人ではありません) at 14:21│Comments(0)