西郷隆盛の言葉
過去の功績にこだわってはいけない。
地位にしがみついてはいけない。
「廟堂に立ちて大政を為すは天道を行うものなれば、些かとも私を挟みては済まぬものなり。いかにも心を公平に操り、正道を踏み、広く賢人を選挙し、能く其の職に任ふる人を挙げて、政柄を執らしむるは、即ち天意なり。それゆえ真に賢人と認むる以上は、直ちに我が職を譲る程ならでは叶わぬものぞ。故に何程国家に勤労あるとも、その職に仕えぬ人を官職を以って賞するは善からぬことの第一なり。官はその人を選びてこれを授け、功ある者には俸禄を以ってこれを賞し、これを愛しく置くものぞ」
政府の中心となって国政を行うことは、天の道を行うことだから、少しも私心をはさんではならない。よく心を公平にして、正しい道を踏み、広く賢人を選び、よくその職を遂行させるのが天意に沿うことである。それゆえ、真に賢人と認められる人がいたならば、すぐに自分の職を譲るほどでなければならないのだ。したがって、いかに国家に功績があったとしても、その職にふさわしくない者に職を与えて賞することはよくないことの第一である。感触はそのふさわしい人物を選んで与え、功績ある者には賞金を与えて、その功をほめるべきである。
(解説)
これは古くは中国の書経にもある教えではあるが、言うにはたやすいことだが、自らの人生で貫ける人はほとんど稀である。よほどの修養がいる。西郷隆盛はその稀なる実践者として、歴史に偉大な名を残した。
明治維新の最大の功労者である西郷だが、自分の役割を果たすと、自らは国政を行う人ではないと、大久保らに道を譲り、鹿児島に帰った。しかし、廃藩置県という難題を控え、大久保、木戸たちの強い要請を持って再び国政の中心となり、さらに岩倉、大久保、木戸たちの外遊の間はしっかりと日本を守った。海外視察組が戻ると、いわゆる征韓論に敗れたという形をとっているが、やはり大久保に「後はまかせた」と地位を自ら退いたのである。
西郷は自らの行き方でもって、日本の後進の政治家たちに範を示した。功績と責任ある地位は分けて考えよという教えは、全ての組織のあり方にも通じる教えである。
総合法令出版株式会社 「薩摩のキセキ」より抜粋
※ どこかの大臣さぁに差し上げたい せごどんのお言葉 でございもす!